日本の哲学用語

認識論とは何か 第一章


 認識という言葉は今日では、殆んど完全に日常語となっている。元来日本の哲学用語は、大部分欧米語からの直訳であり、そうでなければ支那語又は支那語訳のサンスクリットからの借用である。後者は歴史的に時間が経っているだけに日本語として、相当熟してはいるが、併しそれが日常語となっているものは、甚だしく滑稽な用途に制限されて了っているとも見られる。例えば往生とか成仏とかである。そしてそれが本格的な意味で使われる時は、何等かの宗派的な礼式としてしか通用しないので、全く通常性を欠いているのだ。だからそういう言葉を日常生活に用いようとなると、実質に於て一種の外国語にしか過ぎない場合の方が多い。日本古来のからぶりばかりではない、おくにぶりの言葉までも、今日日常語として使えばセクト的な印象しか与えない。お歌所的和歌の歌詞が吾々の生活の言葉と全く無関係であるような類である。

 幸いに認識という言葉は、殆んど完全に日常語となっている。日本の正義について、日本人及び外国人はもっと認識を持たねばならぬ、などと云われている。或る演説会で、ファッショ学生らしいのが「認識せよ!」と叫ぶのを聞いたこともある。単に認識せよでは、どう考えても滑稽であるが、認識という言葉が日常的に使われた揚句、いつの間にか或る特別な内容の認識のことを意味するようになり、かくて却って、世間にはそのままでは通用しないような宗派的用語とさえなっていることを、吾々は注意しなければならぬ。これは日常的に通用しないことの結果ではなくて、悪く日常的に通用しすぎた結果だ。

 だがこの言葉を宗派的に空疎な約束の下で使っているのは、決して社会の俗物ばかりではない。哲学者も亦、この言葉を必要以上の狭い約束の下に、ただの用語上の便宜として、用いていないとは云われない。カントは知識と認識とを区別した。新カント派の哲学者は之に倣って、ベカント(認知された)とエルカント(認識された)とを区別する。なる程この二つは同じことではない。知っていることと、識っていることとが違うように、二つは違う。だがベカントなものはエルカントなものになるのでなければ、本当ではない。と云うのはベカントにならねばならなかったその当初の目的が徹底しない。するとこの二つをただ区別しただけでは困る。二つを一貫して説明出来なくては困る。つまり二つを統一して把握する言葉がなくては困る。ではなぜ、この二つを統一して把握する言葉を「認識」と呼ばずに、ワザワザその片一方だけを認識と呼ぶのだろうか。

 ドイツ語やその他の外国語の場合は、今の場合直接の関心にはならぬ。認識という日本漢語について云えば、認識をそういう風に狭く、学術上の術語のように用いることは、決して哲学的な知恵とは考えられない。哲学という学術に於ては、そういう超世間的で超常識的な用語を以てしては、決して科学的になれないのである。哲学上の用語は、云わば時代の良識に基かなくてはならぬ。哲学に於ては、実際生活に基くニュアンスを全く取り除いて、形式的な定義だけで押して行くような、ああした一種の数学論に見られるような形式主義や公理主義は、それ自身虚偽にぞくする。哲学上の用語は、時代の用語を、最もよく洗練し、深め、且つ機動性を持たせるものではなくてはならぬ。



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